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5. 夫の目が、私を映さない

Auteur: 月歌
last update Date de publication: 2025-12-24 20:45:11

景炎が凱旋して三日。

蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。

今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。

胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。

(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)

だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。

礼服姿の景炎が入ってきた。

その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。

その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。

彼女はやはり美しい。

だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。

空気が揺れるような、ひどく静かな圧。

蘭珠は彼女と会うのは初めて。

しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。

(……この人……人ではないような……)

だが景炎は、それに気づかぬ様子だった。

「殿下……お帰りなさいませ」

精一杯の笑みを浮かべて声をかける。

景炎は短くうなずき――そして、雪瓔を振り返る。

「疲れていないか、雪瓔」

「ええ、殿下のおそばなら……」

その声音は澄んでいて、妙に響く。

蘭珠の胸が締め付けられた。

(殿下は……なぜ。私よりも、あの方を……)

蘭珠は勇気を振り絞り、一歩前へ。

「殿下。お怪我はありませんか? わたくし……ずっとご心配しておりました……」

景炎の瞳が向く。

その目に、蘭珠は愛情の欠片を探した。

だが――

そこにあるのは、ただ冷たく曇った色。

「……そうか」

(……“そうか”?)

胸が冷える。

言葉があまりにも遠い。

以前の景炎なら、真っ先に蘭珠を抱きしめたはずだ。

蘭珠は震える声で続けた。

「殿下、まさか……わたくしの手紙、届いておりませんでしたの……?」

問いかけたとき、景炎の眉がわずかに動いた。

「届いていた。だが……余は忙しかった」

「それだけのことでしょうか……?」

その瞬間、景炎の声が鋭くなった。

「蘭珠。雪瓔が“夢で見た”という」

蘭珠の血の気が引いた。

「……ゆめ……?」

隣で控えていた雪瓔が、蘭珠を一度も見ず、静かに景炎へささやく。

「殿下、無理にお話しなさらずとも……蘭珠様を責めたくて申し上げたことでは……」

その声は、確かに優しい。

優しいのに、妙に空虚で、生気が薄い。

景炎は雪瓔の手を取った。

「いや、伝えねばならぬ。雪瓔の“夢見の力”は確かだ」

蘭珠の胸が大きく波立つ。

景炎は続けた。

「雪瓔は言った。余が戦へ赴く前夜、宮中の庭で“男女が密会している影”を夢に見たと」

「み、みつ……?」

「その影の女が……お前に似ていた、と」

雷に打たれたようだった。

「殿下……! わたくしは、そんな……!」

「夢は真実を映すことがある。雪瓔は幾度も戦の情勢を言い当てた」

景炎の目は、まるで魔法にかかったようだった。

雪瓔の言葉だけを信じ、蘭珠を見る目は疑念に曇る。

雪瓔は蘭珠に視線を向けない。

ただ景炎の袖をそっと掴むだけ。

その仕草に、景炎の表情が緩む。

(……そんな……)

まるで蘭珠は存在しないかのようだ。

景炎が冷たく言う。

「蘭珠。腹の子は……本当に余の子なのか」

蘭珠は小さく息を呑んだ。

その問いは、蘭珠にとって最大の侮辱だった。

同時に、景炎という男が、どれほど雪瓔に心を奪われているかを残酷に示していた。

蘭珠の喉が震えた。

「殿下……わたくしが、殿下を裏切るはずは……!」

「証はあるか?」

「証……?」

どうすれば、証明できるというのだ――

まだ生まれてもいないのに。

雪瓔がそっと景炎の腕を引く。

「殿下……ご無理をなさらず。本日はお休みになられたほうが……」

景炎は一瞬で蘭珠から視線を外した。

「……もうよい。余は行く」

それだけ言い残し、雪瓔とともに部屋を去った。

蘭珠はその背中が見えなくなるまで、ただ呆然と立ち尽くした。

(……殿下……どうして……)

どうして私を見てくれないの。

涙が落ちそうになった瞬間。

「大丈夫ですか、蘭珠様」

背後から低い声が落ちた。

楚凌(そりょう)だった。

景炎の近衛として同行していたが、今のやり取りを少し離れた位置で見ていたらしい。

「殿下は……どうかしておられます。以前の殿下とは違う。あの女……あの“雪瓔”のそばにいる時だけ、まるで別人のようで」

その言葉に、蘭珠は震えた。

「……やはり……何かが……」

楚凌は蘭珠が倒れぬように、そっと支えた。

その手は大きく、温かく、そして揺るがない。

「どうか、ご自分を責めないでください。殿下の態度は……あなたのせいではありません」

その一言に、蘭珠の目から涙がこぼれた。

「楚凌……わたくし……どうすれば……」

楚凌は答えない。

答えられることなど、誰にも分からない。

ただ静かに、蘭珠が崩れ落ちぬよう支え続けるだけだった。

宮殿の外、夕闇の中。

白い衣が舞うように揺れた。

雪瓔は振り返らない。

蘭珠を一度も見なかったくせに、微笑んでいた。

「……殿下はわたくしを信じてくださる。夢は真実を映すのですわ」

その声は、風と混じり、闇へ消える。

そしてその瞳だけが、淡く妖しい光を宿していた。

――蘭珠の幸福も、景炎の理性も、

すでに雪瓔の掌の上にあった。

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  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   58. 終わった戦

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  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   54. 産声

    痛みは、波のように繰り返し押し寄せてきた。一度遠のいたかと思えば、再び腹の奥が強く締めつけられる。蘭珠は敷布を握りしめ、声を堪えながら必死に呼吸を整えた。「……っ、う……」「蘭珠様、息を止めないでください。ゆっくり吐いて」枕元から声をかけたのは、紙問屋の娘である芳玉だった。その反対側では、これまで身の回りを手伝ってくれていた女が、汗に濡れた蘭珠の額を冷たい布で拭ってくれている。二人とも、ずっとそばにいてくれた。自分の出産など、本来ならこの家には何の関係もない。それなのに紙問屋の一家は部屋を貸してくれただけでなく、湯や布を用意し、芳玉まで付き添ってくれている。「芳玉さん……本当に、もう大丈夫ですから。こんな夜中まで付き添っていただくなんて……」痛みが引いた隙にそう言うと、芳玉は困ったように眉を下げた。「今はそんなことを仰らないでください。蘭珠様には、私のことでたくさん助けていただいたんですから」「でも……」「遠慮なさらないでください」今度は手伝いの女が口を挟んだ。「私はもともと蘭珠様のお手伝いをしているのですから、こんな時にいなくてどうするんです」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳なくなる。火事に遭い、足を傷つけ、突然この屋敷へ転がり込んだ。それだけでも迷惑をかけているというのに、今度は出産まで始まってしまった。「……ありがとうございます」蘭珠は小さく頭を下げた。その直後、また腹が硬くなった。「……っ!」今度の痛みは強かった。下腹の奥から腰へかけて、きつく絞り上げられるような痛みが広がる。蘭珠は敷布を握ったまま目を閉じ、侍医に教えられた

  • 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています   53. 帰るための戦い

    陸曜を討ったあとも、大門の内側には血と火の臭いが残っていた。捕らえた兵たちは次々と連行され、負傷者には敵味方を問わず手当てが施されている。つい先ほどまで剣戟が響いていた石畳には折れた武器が散らばり、兵たちはそれを拾い集めながら、城外の様子を何度も気にしていた。楚凌も、大門の上から外を見ていた。遠くに見える景衡軍の松明は、明らかに乱れている。陸曜を失ったことで統率が崩れたのだろう。先ほどまで整然と並んでいた灯りは少しずつ南へ流れ始め、街道へ向かう一団も見えた。景衡は逃げる。その読みは、おそらく間違っていない。「楚凌殿」門番頭が隣へ立った。「敵は退き始めておりますな」「ああ」楚凌は短く答えた。逃げる先も分かっている。景衡が治めていた国境の土地だ。かつて景炎と共に戦い、蒼隼国から奪い取った土地だった。城の位置も、その周囲を走る街道も知っている。景衡が自らの領地へ戻れば、残った兵をまとめ直し、蒼隼国へ助けを求めるだろう。そうなれば、また戦が始まる。ここで終わらせなければならない。分かっていた。それでも身体は、もう休めと言っていた。背中の火傷は脈を打つように疼き、陸曜との戦いで開いた肩の傷からも血が滲んでいる。剣を握っているだけならまだいい。だが腕を大きく動かすたびに、肩から背中へ鋭い痛みが走った。「一度、侍医に診せられた方が」門番頭が心配そうに言う。楚凌は首を横へ振った。「まだ終わっていない」「しかし、その身体では――」そこへ、馬の足音が近づいてきた。王都の奥から一騎の近衛が駆けてくる。男は楚凌の姿を見つけると急いで馬を降り、そのまま膝をついた。「楚凌殿。殿下よりご命令です」楚凌の表情が引き締まる。「申せ」「景衡王爺は南へ退却を始めたものと思われます。王都の守備兵は残し、騎馬を中心

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