ログイン景炎が凱旋して三日。
蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。
胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)
だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。
礼服姿の景炎が入ってきた。
その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。
彼女はやはり美しい。
だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。 空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。
しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。(……この人……人ではないような……)
だが景炎は、それに気づかぬ様子だった。
「殿下……お帰りなさいませ」
精一杯の笑みを浮かべて声をかける。
景炎は短くうなずき――そして、雪瓔を振り返る。「疲れていないか、雪瓔」
「ええ、殿下のおそばなら……」
その声音は澄んでいて、妙に響く。
蘭珠の胸が締め付けられた。(殿下は……なぜ。私よりも、あの方を……)
蘭珠は勇気を振り絞り、一歩前へ。
「殿下。お怪我はありませんか? わたくし……ずっとご心配しておりました……」
景炎の瞳が向く。
その目に、蘭珠は愛情の欠片を探した。だが――
そこにあるのは、ただ冷たく曇った色。「……そうか」
(……“そうか”?)
胸が冷える。
言葉があまりにも遠い。 以前の景炎なら、真っ先に蘭珠を抱きしめたはずだ。蘭珠は震える声で続けた。
「殿下、まさか……わたくしの手紙、届いておりませんでしたの……?」
問いかけたとき、景炎の眉がわずかに動いた。
「届いていた。だが……余は忙しかった」
「それだけのことでしょうか……?」
その瞬間、景炎の声が鋭くなった。
「蘭珠。雪瓔が“夢で見た”という」
蘭珠の血の気が引いた。
「……ゆめ……?」
隣で控えていた雪瓔が、蘭珠を一度も見ず、静かに景炎へささやく。
「殿下、無理にお話しなさらずとも……蘭珠様を責めたくて申し上げたことでは……」
その声は、確かに優しい。
優しいのに、妙に空虚で、生気が薄い。景炎は雪瓔の手を取った。
「いや、伝えねばならぬ。雪瓔の“夢見の力”は確かだ」
蘭珠の胸が大きく波立つ。
景炎は続けた。
「雪瓔は言った。余が戦へ赴く前夜、宮中の庭で“男女が密会している影”を夢に見たと」
「み、みつ……?」
「その影の女が……お前に似ていた、と」
雷に打たれたようだった。
「殿下……! わたくしは、そんな……!」
「夢は真実を映すことがある。雪瓔は幾度も戦の情勢を言い当てた」
景炎の目は、まるで魔法にかかったようだった。
雪瓔の言葉だけを信じ、蘭珠を見る目は疑念に曇る。雪瓔は蘭珠に視線を向けない。
ただ景炎の袖をそっと掴むだけ。その仕草に、景炎の表情が緩む。
(……そんな……)
まるで蘭珠は存在しないかのようだ。
景炎が冷たく言う。
「蘭珠。腹の子は……本当に余の子なのか」
蘭珠は小さく息を呑んだ。
その問いは、蘭珠にとって最大の侮辱だった。
同時に、景炎という男が、どれほど雪瓔に心を奪われているかを残酷に示していた。蘭珠の喉が震えた。
「殿下……わたくしが、殿下を裏切るはずは……!」
「証はあるか?」
「証……?」
どうすれば、証明できるというのだ――
まだ生まれてもいないのに。雪瓔がそっと景炎の腕を引く。
「殿下……ご無理をなさらず。本日はお休みになられたほうが……」
景炎は一瞬で蘭珠から視線を外した。
「……もうよい。余は行く」
それだけ言い残し、雪瓔とともに部屋を去った。
蘭珠はその背中が見えなくなるまで、ただ呆然と立ち尽くした。
(……殿下……どうして……)
どうして私を見てくれないの。
涙が落ちそうになった瞬間。
「大丈夫ですか、蘭珠様」
背後から低い声が落ちた。
楚凌(そりょう)だった。
景炎の近衛として同行していたが、今のやり取りを少し離れた位置で見ていたらしい。
「殿下は……どうかしておられます。以前の殿下とは違う。あの女……あの“雪瓔”のそばにいる時だけ、まるで別人のようで」
その言葉に、蘭珠は震えた。
「……やはり……何かが……」
楚凌は蘭珠が倒れぬように、そっと支えた。
その手は大きく、温かく、そして揺るがない。「どうか、ご自分を責めないでください。殿下の態度は……あなたのせいではありません」
その一言に、蘭珠の目から涙がこぼれた。
「楚凌……わたくし……どうすれば……」
楚凌は答えない。
答えられることなど、誰にも分からない。ただ静かに、蘭珠が崩れ落ちぬよう支え続けるだけだった。
宮殿の外、夕闇の中。
白い衣が舞うように揺れた。雪瓔は振り返らない。
蘭珠を一度も見なかったくせに、微笑んでいた。「……殿下はわたくしを信じてくださる。夢は真実を映すのですわ」
その声は、風と混じり、闇へ消える。
そしてその瞳だけが、淡く妖しい光を宿していた。
――蘭珠の幸福も、景炎の理性も、
すでに雪瓔の掌の上にあった。朝靄を裂くように、楚凌たちの騎馬隊は城門前へ迫った。遠目にも、景衡の姿はすぐに分かった。閉ざされた門の前で馬を止め、城壁を見上げている。その周囲にはわずかな護衛が残っているだけで、王都を囲んでいた時の勢いはもうどこにもなかった。楚凌は速度を落とした。「止まれ」後続の騎兵たちも一斉に手綱を引く。蹄の音が途切れると、朝の空気に奇妙な静けさが戻った。景衡の護衛たちは剣へ手をかけている。だが、城門は閉ざされたままだ。楚凌はその光景を見ただけで、おおよその事情を察した。景衡はまだ城内へ入れてもらっていない。しかも城壁の上には兵が並んでいるものの、こちらへ弓を向ける様子がない。景衡を守ろうとしているなら、すでに射かけてきてもおかしくない距離だった。城側は迷っている。いや。すでに答えは、ほとんど出ているのかもしれない。「楚凌……!」景衡が振り返った。その顔は青ざめ、長い逃走の疲れがありありと浮かんでいる。「なぜ、貴様がここまで……」楚凌は景衡をまっすぐ見据えた。「陸曜は死んだ。王都へ入った兵も捕らえた。これ以上逃げても意味はありません」「黙れ!」景衡は声を荒らげた。「まだ終わってはいない! ここには兵がいる。蒼隼国からも援軍が来る!」その言葉に、城壁の上の兵たちがわずかにざわめく。楚凌はそれを見逃さなかった。やはり、蒼隼国の援軍はまだ来ていない。そして城内の者たちも、それを当てにして命を懸ける気にはなっていない。楚凌は馬を数歩進めた。景衡の護衛が身構える。こちらの騎兵たちも剣へ手をかけたが、楚凌は片手を上げて制した。今ここで戦を始める必要はない。戦わずに終わらせられるなら、その方がいい。楚凌は城壁を見上げた。「城を守る者へ申し上げる!」声を張る。兵たちの視線が一斉に集まった。「我々が追っているのは景衡王爺です。この城の兵や民と戦うために来たのではない!」城壁の上で、先ほど景衡と話していたらしい武官が姿を現す。楚凌は続けた。「門は閉ざしたままで構わない。こちらへ兵を出す必要もない。ただし、景衡王爺を城内へ入れないでいただきたい」景衡が目を見開いた。「何を勝手なことを!」楚凌は構わず言葉を続ける。「王爺を入れれば、この城は反乱の拠点となる。そうなれば、皇太子殿下もこの土地を敵地として扱わざるを得
景衡は、何度も後ろを振り返っていた。朝靄の中を、馬の蹄が土を蹴り上げる。王都を離れてから、どれほど走ったのか分からない。最初は数百いた兵も、逃走の途中で散り散りになり、今では自分の周囲に残っているのは直属の騎兵とわずかな護衛だけだった。誰も口を利かない。話せば、敗北を認めることになるような気がした。景衡は馬上で奥歯を噛む。こんなはずではなかった。王都内部には十分な人数を潜り込ませた。放火で民を混乱させ、皇太子への不満を煽り、内側から門を開く。狼煙が上がれば陸曜が軍を動かす。王都へ入った後は、混乱した兵を押し切り、宮城を落とす。すべて、うまくいくはずだった。少なくとも陸曜はそう言っていた。――殿下は何もなさらずともよろしい。――王都へ入った後、皇族として御姿をお見せください。それだけで兵も民も、景炎ではなく殿下こそ天命を受ける者だと理解いたしましょう。景衡は、その言葉を信じた。いや。信じたかったのだ。兄の景炎は昔から何でも自分より上だった。戦えば勝つ。政を任されれば結果を出す。父帝からも期待され、臣下たちからも次代の皇帝として見られている。自分は違った。景炎の弟。それだけだった。どれほど努力しても兄の影から出ることができない。そんな自分へ、陸曜は初めて言ったのだ。景衡様こそ皇帝にふさわしい、と。「王爺!」前を走っていた騎兵が振り返った。「もうすぐ城です!」景衡は顔を上げる。朝靄の向こうに、見慣れた城壁が浮かんでいた。胸の奥に、ようやく安堵が広がる。ここまで来ればいい。あの城には兵がいる。武器もある。食糧も蓄えている。何より、あの土地は皇太子の命によって自分が統治を任
王都を離れてから、どれほど走っただろう。夜の街道を、蹄の音が駆け抜けていく。楚凌は先頭に立ち、南へ馬を走らせていた。その後ろには、王都から選び抜いた騎兵たちが続いている。数は多くないが、追撃戦に慣れた者を優先して連れてきた。景衡軍と正面からぶつかるためではない。逃げる景衡を捕らえるための兵だ。「楚凌殿!」前方から声が飛んだ。「敵兵です!」楚凌は手綱を引き、馬の速度をわずかに落とした。街道の先に、いくつもの松明が見える。景衡軍の後衛だった。ただし、軍と呼べるほど整然としてはいない。数十人ほどの兵がまとまりなく走り、振り返っては王都の方角を気にしている。陸曜を失った影響は、楚凌が想像していた以上に大きいらしい。「追いつきますか」隣を走る騎兵が尋ねる。楚凌は前方を見たまま答えた。「追いつく。だが深追いするな」「はっ」「我々の目的は雑兵を討つことではない。景衡だ」腰の剣へ手を添える。その動きだけで肩に痛みが走った。楚凌は眉を寄せた。背中の火傷も悪化している。馬が地面を蹴るたびに身体が上下し、そのたび包帯の下の皮膚が引き攣った。汗が傷へ入り込むのか、焼けるような痛みまで感じる。王都を出る前より、確実に身体は重くなっていた。それでも止まれない。――必ず帰る。自分で蘭珠へ伝えた言葉だった。口にした以上、守らなければならない。景衡を捕らえる。この反乱を終わらせる。そして帰る。それだけだった。「速度を上げろ!」楚凌の号令とともに、騎兵たちが一斉に馬腹を蹴った。蹄の音が大きくなる。前方の敵兵も追手に気づいた。「来たぞ!」「追手だ!」悲鳴に近い声が夜へ響く。景衡軍の後衛が慌てて隊列を組もうとする。だが遅かった。陸曜がいれば、違っただろう。追撃を予測し、後衛へ指揮官を置き、逃げる本隊との距離を保ちながら迎撃させたはずだ。今は、それがない。誰かが「止まれ」と叫び、別の者が「逃げろ」と叫んでいる。兵たち自身が、誰の命令に従えばいいのか分かっていなかった。楚凌は剣を抜いた。「道を開けろ!」怒声が響く。数人の敵兵が槍を構える。楚凌は馬上から剣を振るい、その穂先を弾いた。左右から味方の騎兵が駆け抜ける。敵の隊列が崩れた。それでも、楚凌は追わない。逃げる兵を背後から斬る必要などなかった。「
痛みは、波のように繰り返し押し寄せてきた。一度遠のいたかと思えば、再び腹の奥が強く締めつけられる。蘭珠は敷布を握りしめ、声を堪えながら必死に呼吸を整えた。「……っ、う……」「蘭珠様、息を止めないでください。ゆっくり吐いて」枕元から声をかけたのは、紙問屋の娘である芳玉だった。その反対側では、これまで身の回りを手伝ってくれていた女が、汗に濡れた蘭珠の額を冷たい布で拭ってくれている。二人とも、ずっとそばにいてくれた。自分の出産など、本来ならこの家には何の関係もない。それなのに紙問屋の一家は部屋を貸してくれただけでなく、湯や布を用意し、芳玉まで付き添ってくれている。「芳玉さん……本当に、もう大丈夫ですから。こんな夜中まで付き添っていただくなんて……」痛みが引いた隙にそう言うと、芳玉は困ったように眉を下げた。「今はそんなことを仰らないでください。蘭珠様には、私のことでたくさん助けていただいたんですから」「でも……」「遠慮なさらないでください」今度は手伝いの女が口を挟んだ。「私はもともと蘭珠様のお手伝いをしているのですから、こんな時にいなくてどうするんです」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳なくなる。火事に遭い、足を傷つけ、突然この屋敷へ転がり込んだ。それだけでも迷惑をかけているというのに、今度は出産まで始まってしまった。「……ありがとうございます」蘭珠は小さく頭を下げた。その直後、また腹が硬くなった。「……っ!」今度の痛みは強かった。下腹の奥から腰へかけて、きつく絞り上げられるような痛みが広がる。蘭珠は敷布を握ったまま目を閉じ、侍医に教えられた
陸曜を討ったあとも、大門の内側には血と火の臭いが残っていた。捕らえた兵たちは次々と連行され、負傷者には敵味方を問わず手当てが施されている。つい先ほどまで剣戟が響いていた石畳には折れた武器が散らばり、兵たちはそれを拾い集めながら、城外の様子を何度も気にしていた。楚凌も、大門の上から外を見ていた。遠くに見える景衡軍の松明は、明らかに乱れている。陸曜を失ったことで統率が崩れたのだろう。先ほどまで整然と並んでいた灯りは少しずつ南へ流れ始め、街道へ向かう一団も見えた。景衡は逃げる。その読みは、おそらく間違っていない。「楚凌殿」門番頭が隣へ立った。「敵は退き始めておりますな」「ああ」楚凌は短く答えた。逃げる先も分かっている。景衡が治めていた国境の土地だ。かつて景炎と共に戦い、蒼隼国から奪い取った土地だった。城の位置も、その周囲を走る街道も知っている。景衡が自らの領地へ戻れば、残った兵をまとめ直し、蒼隼国へ助けを求めるだろう。そうなれば、また戦が始まる。ここで終わらせなければならない。分かっていた。それでも身体は、もう休めと言っていた。背中の火傷は脈を打つように疼き、陸曜との戦いで開いた肩の傷からも血が滲んでいる。剣を握っているだけならまだいい。だが腕を大きく動かすたびに、肩から背中へ鋭い痛みが走った。「一度、侍医に診せられた方が」門番頭が心配そうに言う。楚凌は首を横へ振った。「まだ終わっていない」「しかし、その身体では――」そこへ、馬の足音が近づいてきた。王都の奥から一騎の近衛が駆けてくる。男は楚凌の姿を見つけると急いで馬を降り、そのまま膝をついた。「楚凌殿。殿下よりご命令です」楚凌の表情が引き締まる。「申せ」「景衡王爺は南へ退却を始めたものと思われます。王都の守備兵は残し、騎馬を中心
正殿へ駆け込んできた伝令は、息を切らしたまま床へ膝をついた。「ご報告申し上げます! 陸曜将軍、討ち死ににございます。楚凌殿がこれを討ち取りました。陸曜に従って入城した兵も武器を捨て、現在は拘束されております!」一瞬、誰も声を発しなかった。その報告の意味を理解するまで、わずかな間が必要だったのだろう。やがて正殿にどよめきが広がり、張り詰めていた武官たちの顔にも、初めて明確な安堵が浮かんだ。「陸曜を討っただと……!」「では、反乱軍はもう――」「景衡王爺だけでは軍をまとめられまい!」口々に声が上がる。だが、景炎だけは表情を崩さなかった。陸曜を失ったことは大きい。景衡は皇族であるというだけで反乱軍の旗印になれる。だが、自ら軍を率いて戦況を判断し、兵をまとめ上げる力量がある男ではない。王都内部へ工作員を潜ませ、火を放ち、民を煽り、門を内側から開かせるという今回の策も、実際に組み立てて動かしていたのは陸曜だった。その男が死んだ。ならば、景衡が次に取る行動も、おおよそ想像がつく。「まだ終わっていない」景炎の低い声に、浮き足立ちかけていた正殿が静まった。「陸曜は死んだ。だからこそ、景衡は逃げる」景炎は机に広げられた地図へ視線を落とした。王都から南へ延びる街道。その先には、景衡が治めている国境近くの土地がある。もとは蒼隼国の領土だった。かつて景炎と楚凌が共に戦場へ立ち、多くの兵を失いながら蒼隼国から削り取った土地である。瑞華の領土として安定させ、国境を守らせるため、景炎は弟である景衡へその統治を任せた。皇族として責任を果たしてほしい。弟ならば、瑞華のために土地を守るだろう。そう信じていた。だが景衡は、陸曜とともに兄を裏切った。あろうことか、かつて戦った蒼隼国と手を結び、自らに託された土地を反乱の拠点へ変えたのである。王都攻略に失敗した以上、景衡が逃げ込む場所
門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周
楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難
景炎が出陣して三十日。蘭珠は毎朝、宮門のほうを見つめる癖がついてしまっていた。勝利の報せは届いた。しかし景炎本人からの文は、最初の一通きりだ。「必ず戻る」と記された、あの短い文を最後に。蘭珠は机に向かい、書きかけの返書をゆっくり丸めた。何度書いても、出す前に胸が疼く。(殿下……どうして何の返事もくださらないの)体を動かさなければ、涙が溢れてしまいそうだった。だから庭に出る。ゆっくりと歩き、朝露の光る芍薬の花を眺める。けれど、心は晴れない。そこへ突然、侍女の梅香が駆け込んできた。「蘭珠様! 急ぎのご報せです!」「景炎の……殿下のお便りかしら!?」期待が一気に胸へせ
夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔